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移住者の声

寝袋を持って1人で移住、村で行われてきた和紙づくりを生業に。

紙漉き工房「いとをかし」山形 歩さん(宮津市)

今回お話を伺ったのは、10年前に里の仕掛人※の1期生として京都府宮津市·上世屋(かみせや)へ移住され、現在はご自身で紙漉(す)き工房を主宰されている山形 歩さん。絵本の中の世界に入ったような美しい風景の広がる上世屋ですが、冬の暮らしは厳しくもあります。その土地へ20代前半の時にたった1人で、寝袋を持って滋賀の実家から移り住んだ歩さん。慣れない山での暮らしの中、真冬に冷水でシャワーを浴びた夜もあるのだそう。「何がなんでもここに住まなきゃ!」と必死だった毎日。なぜ歩さんはそこまでがんばれたのか、そして現在の心境についても丁寧に話していただきました。
※当時、京都府が制度化していた、地域への人材支援制度の名称

目次
■ プロフィール大学卒業後にすぐ、1人で上世屋へ移住 。「何がなんでも!」『持っているペンの数が人生の選択肢の数』と気づいた学生時代日常の中で行われてきた紙漉きに「出会ってしまった」子育てをしていると思い出す、自分が子どもだった時今までのことと、そして、これからのこと

山形 歩(やまがた あゆみ)さん

滋賀県で育ち、登山好きの父親の影響で小さな頃から山へと遊びに行く。絵を描くことも大好きで、進学校であった高校の担任教師に反対されながらも美術大学へ入学。学費や画材のために励んだバイト先の職場で、未使用の商品が大量廃棄されている現実に疑問を抱き、休学してピースボート※に乗船。卒業後、里の仕掛人の第1期生として宮津市・上世屋へ移住。そして現在、上世屋生活も10年目となり、原料栽培から製品づくりまで一貫して行う紙漉き工房「いとをかし」を主宰しながら、お子さんと夫の3人家族で暮らす。
※世界各地の遺産や大自然を訪れ、各国の地域に暮らす人々と顔の見える交流を行う船の旅

大学卒業後にすぐ、1人で上世屋へ移住 。「何がなんでも!」



――20代前半に、1人で上世屋へ移住されたのですね。そのきっかけとは?

歩さん:わたしが子どもの頃、森林総合研究所の研究者だったご夫婦が滋賀にある実家のご近所さんで、そのお二人が、森の中で遊びながら学べるような子どもの探検隊をつくってくれていました。わたしが大学生の時にそのご夫婦から、「世屋の昔の地図をイラストに起こして残しておきたいという声が住民の方から起こっているから手伝ってほしい」と言われて、そのお手伝いで世屋地区へ通うようになったんです。

地域の家を一軒ずつ訪ねて話を聞いて、それをイラストに描き起こすといった作業の中で、世屋のおじいさんやおばあさんの生き方って良いなぁと思うようになりました。いくつになってもずっと畑仕事で忙しそうにされていて、その姿が生き生きと見えて。この風景の一部になるような生き方をされているんだろうな、そういうのがすごく良いなぁと。

そうして世屋に通っている間に、「里の仕掛人」の第1期になってみないかという話をいただきました。当時、上世屋には若い人が全くいなかったのですが、「やってみたいです」と言って来たのが移住のきっかけです。


――その時、たった1人での移住に、ご両親は心配されていませんでしたか?

歩さん:わたしの父は、バックパッカーでポンと1人で海外に行っちゃうような人なので、「コレ役に立つやろ、がんばれよー」って餞別にヘッドライトをくれましたね。昔、わたしが福岡にいた時に実家の犬が亡くなったという知らせを受けて、1人で福岡から滋賀までヒッチハイクで帰ったことがあったんです。だから母も、「もう、あんたが何をしてもびっくりせえへんわ」って(笑)。ちょっとまあ、2人とも変わっていますかねえ。両親を面白がって、わたしの友達が実家に遊びに来てくれたりもしていましたね。


――ご両親にもお会いしてみたいです。上世屋での暮らしはいかがでしたか?

歩さん:上世屋へは、寝袋と、少しだけの服を持って移住してきました。住まいは、上世屋に建っているNPOの事務所の2階に間借りをさせてもらって。冬場はお風呂が大変でした。それまでの暮らしでは、お湯は制限なく使えるのが当たり前だったので、一定量のお湯がなくなると急に冷水に変わるという、都市ガスとは違う仕組みを把握していなくて。真冬の夜のシャンプー中に、シャワーのお湯が冷水に変わってしまい、凍えながら流したこともありましたね。その後、雪に埋まったガスを自分で交換するために、2Mほどの雪を掘ったのも辛かったです。そんな風に、何も分からないところから、ちょっとずつ暮らし方を学んでいきました。移住してあちこちのお手伝いをする中で、仲良くなったおじいさんから現在の家のオーナーさんを紹介していただくまで、そこに3年くらい住みましたね。

当時、若い世代はわたしだけだったので、住民の人が心配してくれて、「こんな所におらんで、はよ嫁に行けよ」って言われたこともあったり。わたしは上世屋に嫁いだくらいの気持ちで来ていたので、別に誰にも頼まれていないけれど、何がなんでもここに頑張って住まなきゃという気持ちでしたね。誰かが住まないと地域が残っていくことはないし、わたしみたいに普通の人がここにポンと住み始めたら、移住のハードルも下がるかなという思いもあって。なので、ここを出るということは考えたこともなかったです。

▲上世屋での暮らし方をひとつずつ学んでいった歩さん。釜で炊かれた世屋のお米のおいしいこと。

「持っているペンの数が人生の選択肢の数」と気づいた学生時代



――芯の強さを感じます。なぜそこまでの想いを持つようになったのですか?

歩さん:そうですねえ。わたしは小さな頃から絵を描くことが好きで、美術大学に進みました。高校は進学校で、担任の先生からは「食べていけない」と反対されたのですが(笑)。両親もそういった道に進みたかったけれどできなかったそうで、私には「自分のやりたいことをしなさい」と、反対はされませんでした。でも、大学に入ってから知ったのですが、学費がすごく高くて、画材も必要で、在学中はずっと働かなければならなかったし、学校の課題もたくさんあって、すごく後悔することになりましたね。

なんでもやってみたいタイプなので、「これも学生の特権」と、たくさんのアルバイトをしたのですが、どこの職場でも未使用の商品を大量廃棄しなければいけない決まりがあって。皮がむかれる前の食べられるバナナを大量に捨てたり、ゲームセンターの景品のぬいぐるみを捨てる前に切りきざんだり。「おなかいっぱい食べたい人だっているのにな、ぬいぐるみを作った人はどんな気持ちがするだろう」と思うと、悲しくなって。「わたしはものを作るのが好きだけど、これだけ物が溢れた世の中で自分は何を作れば良いんだろう、絵を描くためにはドロドロとたくさん絵の具を使って水に流さなければいけないけれど、環境を犠牲にしてまで自分はものを作っても良いのかな?」と考えるようになりました。

自分がこれからどうすればいいのかを考えるためにも、海外を見てみたいと思うようになって。父が船旅に興味があった影響で、ピースボートに乗船することにしました。世界をまわったその旅で、自分の中でやっと考えを整理できて、日本だからこそある恵みのようなものをきちんと実感できるようになったんです。旅から帰ってきて、日本は桃源郷のようなところだなぁと改めて気づきました。この足元にあるものを大事にして生きていきたい、という風にすごく思いました。


――どんなものを見て、どんなことを感じられた旅だったのですか?

歩さん:中東に隣接するアフリカのエリトリアという国にも行ったのですが、そこは1990年代まで内戦があった国なんです。わたしたちの船が着くと子どもたちが「ペンちょうだい!」とたくさん集まってきて。日本のペンは性能が良いので需要があったみたいです。結局ペンを1本あげたんですけど、このままでは、ずっとその繰り返しになってしまうと思って。他の国でも感じたのですが、子どもたちが育つ環境を作ることができるのは大人であって、子どもはそこに生まれてきて、目を開いたときに見えるものや、教えられた言葉を信じて生きていくだけなので、もし悪い人になってしまったのだとしたら、その人が育ってきた環境に原因があるんじゃないかな、という風にすごく思って。

それに、ペンって今、自分の家にどれだけ転がっているだろう?と考えたんですね。なんだか、持っているペンの本数がその人の生きる選択肢の数のように思えて。今のわたしたちは何でも自分の意志で選ばせてもらえる状態ですけど、そのことに対してすごく責任を感じたんです。同じように、知っているものの数だけ選択肢があるとすれば、1つのことしか知らない場合は、その道をまっすぐに進むしかないんだなと。自分がたくさんの選択肢の前に立っているとしたら、自分が今知っている選択肢の中でどれを選ぶのか、それが、知らない人たちに対しての礼儀というか、責任のように感じて。だから、しっかりと選ばないといけない、しっかりと学んだことを伝えたり、それを踏まえたうえでの行動をしなければならないとすごく思いました。日本に帰って大学に復学してからは、とても意欲的に学ぶようになりましたね。

▲ピースボートの旅で訪れた、パプアニューギニアで出会った子供たち。日本の柿みたいに、マンゴーを拾っては皆で食べた思い出。どこに行っても子供たちは可愛くて、どこに行っても一生懸命働き生きる人たちは素敵だったそう。

日常の中で行われてきた紙漉きに「出会ってしまった」



――紙漉きを生業とされていますが、そのきっかけとは?

歩さん:上世屋に住むことを決めたときに、この場所で何か仕事を作る必要があるという想いが初めからありました。ここに住むことを諦めてしまう人は、雪で仕事に通えなくなるとか、事情があると思うんですよね。上世屋に来て2年目になり、何で食べていくかを考える段階になった時に、紙漉きに出会ってしまい、「和紙づくりをしたい」と思いました。そう思ったのが間違いだったかもしれないんですけどね(笑)。

世屋にある5つの集落の中のひとつに、畑(ハタ)という集落があって、昔はそこで稲刈りが終わった後の冬の仕事として、紙漉きをしていたそうです。最盛期は紙漉きをしている家が40軒ほどあったそうですね。それまでの私の紙漉きのイメージは、伝統工芸のような、ちょっと敷居が高いイメージだったのですが、暮らしの中でごく自然に、百姓のうちの1つという感じで紙漉きをしていたんだということが分かって、それが良いなと思ったんです。

▲自宅内にある紙漉き工房。少しでも作業がラクになるようにと、歩さんの夫が試行錯誤して作った機械たちが並んでいる。


――紙漉きに興味を持たれたあゆみさんは、それからどうされたのですか?

歩さん:この辺りにはもう、実生活で紙漉きをされている方がおられなかったのですが、「昔ながらの畑のやり方をしている紙漉き同好会があるよ」と教えてもらってそこへ通ったり。また、黒谷和紙さんの元へ話を聞きに行ったり、丹後和紙さんに苗を分けていただいて栽培方法を教わったりしながら、勉強を始めました。有名な和紙アーティストの方が宮津でアトリエをされていると聞いて、研修に行かせてもらえることになり、現在手に入る道具でできる紙漉きの手法や販売についても教えていただきました。

そのうち、伝統的な紙漉きに切り替えたいと思うようになって、伝統手法でされている丹後和紙さんにお願いして、3年間通わせてもらったんです。そこで勉強させていただいて、やっと、このやり方はこれでいいんだなとか、ここはもっとこうしなきゃいけないんだなということが分かって。原料の楮(こうぞ)が国産のものは希少で手に入らず、それまではタイ産のものを使っていたのですが、「地から地に」というのがわたしの中のテーマにあったので、自分で楮も栽培することにして。「ねり」という間に入れる材料も、化学ねりではなく、自然のものにこだわるようになりました。

▲歩さんが栽培している楮。すっかり土地に根付き、歩さんの背丈を超えるほどに成長している。

子育てをしていると思い出す、自分が子どもだった時



――歩さんが「苦楽を共にしてきた」という、お子さんの話も聞かせていただけますか

歩さん:娘は今、6歳で、今年の春から小学生です。子育てをしていると、自分の子供時代を思い出すことがあります。「自分もこんなだったなぁ」とか、「こういう時に親はこんな気持ちだったのかなぁ」といったことを最近よく思いますね。

子どもができて、もっと稼がなきゃ、早く紙漉きをモノにしなきゃという焦りや責任を感じていました。子どもを寝かせてから夜中に1人、紙漉き作業をしたり。和紙は冬の仕事なので、お正月とかも休まずに作業で。そんな生活が当たり前なので、いつも近くに子どもが一緒にいながら仕事をしている感じです。最近、子どもが紙漉きをしたいと言うので、手伝ってもらったりもしています。

私は全く「子どもを跡継ぎに」とは思っていなくて、自分なりの豊かさの中に生きてほしいと思っています。なるべく、今の中での幸せを自分で見つけさせてあげたいなと思って、私なりの努力はできるだけしているつもりなんですけどね。自由であることに感謝できる心を持って、自分や周囲を信じて選択ができる人になってほしいです。

子どもが生まれてから、村も明るくなったように思います。折り畳まれていく力がどうしても強い中で、子どもたちがいると広がりが出てくるなと感じますし、村の人たちが見守ってくださっているというのも感じます。上世屋も子どもが4人になりました。あとは上世屋の上の村にも5人いて、世屋地区全員で9人います。やっぱり子どもが増えてくると、純粋に楽しいし、村としても「もっとこうしよう」という活力が出てくる雰囲気がありますね。

今までのことと、そして、これからのこと



――上世屋で10年暮らしてきた現在、どんなことを感じられていますか?

歩さん:そうですね。上世屋の人たちって、本当にすごく働き者なんです。寝る間がないくらい、お米を作って、機織りをして、春になれば蕗を摘んで。畑づくりや草刈りもきれいにされます。お百姓さんの技は、自給自足の暮らしに関する仕事の全てなので、本来、人が生きるためにはこれだけ働かなければならないのだと実感します。この人たちの生き方を近くで学びたいと思ってきたのですが、いつか、そんな方々がこの村からいなくなってしまったときに、それでもまだ自分がここにいたいと思えるのかな、というのは不安だったんですけど。

▲歩さんが描かれた村の鳥瞰図には、村人全員が描き込まれている。「このおじいさんはカブに乗って畑へ通っていて、ここのおばさんはレンコンを育てていて・・」と、たのしそうに説明してくれました。

やっぱり、村の風習がなくなっていくことの寂しさはあります。知らないままで、繋ぎようもないこともたくさんあるんですけど、自分たちなりに、これから作っていってもいいんじゃないかと思えるようになってきました。だんだんと若い同世代の人たちが増えてきたことで、ここに頑張って住まなきゃという気持ちよりも、ここで普通に暮らしているという感覚に変わってきたように思います。

今はネパールやベルギーから移住された方もいて、みんなで集まるとすごく豊かな時間になるんです。新しい仲間を見ていると、すごいな、勇気あるなと元気をもらいます。自分たちのできることはサポートしたいですし、逆に自分が助けてほしいときは、ちゃんとみんなの力を借りたりできる関係がいいですね。

▲上世屋のフラッグ完成記念時に村のみんなで撮影した1枚。


――紙漉き工房の屋号「いとをかし」に込めた思いとは

歩さん:朝陽とか夕陽とかいろんなものを見ていて、清少納言の文章でもまったく同じようなことに感動しているな、と気づいて。「春はあけぼの~いとをかし」みたいな文章がたくさんありますよね。昔の人もここに立って朝日や月を眺めていたんだな、鳥や虫の声を聴き、草花を眺めてふとした瞬間に綺麗だと感じていたんだな、とか。何百年も昔の人たちと自分たちも同じようなことを感じていて、それって確かなことというか、いろんなことが大きく変わっていく中でも、大昔の人も今も、たぶん未来の子たちも、ここに立って感じることって一緒なんじゃないかなと思うんです。

そういう表現しがたい、心の中にある趣のようなものがずっと未来永劫、続いていくといいなという願いを込めて名付けました。本当に勝手な思いですが、この土地がずっと続いてほしい、この土地が村としてずっと続いていくといいなと思ってきましたし、今も、そう思っています。

山形 歩さんのことをもっと知りたい方は・・
▶︎紙漉きや上世屋での日々の暮らしについて写真と言葉でつづられているHPとSNS。
 「いとをかし HP」「いとをかし Instagram」「いとをかし Facebook
▶︎上世屋のHP。移住体験施設やオンラインショップ情報も掲載。
 「小さく生きてきた

その他、気になることは
▶︎京都移住コンシェルジュまでお問い合わせください。

【インタビュー後記】
はじめて歩さんにお会いしたのは、大阪の百貨店に丹後の仲間と一緒に出展されていたイベントでした。並んでいる和紙に惹かれて手にとって見ていると、作者の歩さんが隣りに立って和紙の説明をしてくれました。歩さんの全体を包む柔らかな雰囲気の中に、凛としたものを感じ、和紙だけでなく本人にも惹かれて、何度かお願いして実現できたインタビューです。上世屋に訪問させてもらい、歩さんからお話を伺っていると、その芯の強さに、自分のこれまでや考え方が恥ずかしくなるような思いがしました。歩さんが作るから、歩さんの和紙があんなに魅力的なのだと分かりました。歩さんの感性に触れられるHPやSNSもぜひ一度、ご覧になってみてください。

(文責:京都移住コンシェルジュ 山崎)

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